第3章 稲垣栄作は永遠に私を好きにならない。
夕暮れ時、高橋遥は一人で寝室のドレッサーの前に座っていた。
薄暗い夕日の光が彼女の影を長く引き伸ばし、ドレッサーに並べられた様々なスキンケア用品を見つめていた。
彼女は知っていた、これらは自分のものではなく、高橋遥のものでもなく、稲垣夫人のものだと。
もうこの稲垣夫人でいるのは嫌だった。
今夜、彼は白井侑里と一緒にいるのだろうか?
彼女は涙をこらえながら、引き出しから淡いピンク色の日記帳を取り出した。厚みがあり、かなりの年月が経っているようだった。
これらはすべて、かつて稲垣栄作を愛していた証だった。
ページをめくると、そこには18歳の彼女が稲垣栄作に宛てた恋文がびっしりと書かれていた。
言葉は幼稚だったが、純粋な愛が溢れていた。
【稲垣栄作が一日中私を無視した!】
【稲垣栄作は私のことが嫌いなのかな?彼の好きなスイーツをあげたのに、見向きもしなかった。】
【稲垣栄作、彼は私のことが嫌いなんだろう。でも、どうして生理中の私にコートを貸してくれたの?彼も私のことを密かに好きなのかな?】
【高橋遥、頑張って!いつか稲垣栄作はあなたの真心に打たれて、あなたを愛するようになるよ!】
高橋遥はこれらの馬鹿げた言葉を見て、まるで当時の自分がドレッサーの前で一心不乱に書き綴っていた姿を見ているかのようだった。
彼女は無意識に笑ったが、その笑顔は苦々しく、涙が彼女の顔を濡らした。
彼女は日記を最新のページにめくり、ペンを取り上げたが、心が痛み、稲垣栄作に関する愛の言葉を書くことができなかった。
彼女は知っていた、もう愛していないと。
稲垣栄作を深く愛していた高橋遥はもう死んでしまったのだ。
涙がペン先を伝い、白い紙に滴り落ちた。紙は涙で濡れ、インクが滲んで、しわくちゃになった紙にはただ一言だけが残された。
【稲垣栄作はもう私を好きになることはない!】
美しい文字も彼女の心も、涙で歪み、曲がりくねっていた。
その時、ドアがノックされた。
「奥さん、誰かがあなたに物を届けに来ました」
高橋遥は涙を拭い、目を瞬かせて、使用人に自分が泣いていたことを悟られないように努めた。「入って」
使用人が部屋に入り、四角い箱を抱えてきた。その後、彼女は高橋遥を一瞥し、奇妙な表情を浮かべた。彼女は知っていた、今日は稲垣夫人と旦那様の結婚記念日であり、同時に夫人の誕生日でもある。しかし、旦那様はH市で別の女性と一緒にいる。
だが、彼女はそれを口に出すことはできなかった、それは禁忌だった。
高橋遥は大きな箱を見つめ、一瞬呆然とした。
ピンク色の箱、一目でケーキの箱だと分かる。装飾が美しく、一目で心を込めて選ばれたものだと分かる。
彼女の心にはまだ一縷の期待があった、これは稲垣栄作が送ってくれたものだろうか?
しかし、箱を開けると、小さな8インチのケーキの上に、黄色い小さな星、ミニチュアのテント、その中には小さな三つ編みの女の子が座っていて、両手を合わせて願い事をしている姿があった。
ケーキの箱の横には一枚のカードがあった。
彼女は震える手で最後の一縷の期待を胸に、カードを開いた。
「遥ちゃん、久しぶりだね。当時は裕樹お兄ちゃんって追いかけてたよね」
裕樹お兄ちゃん?
記憶が蘇り、彼女の脳裏には6、7歳の少年を追いかける自分の姿が浮かんだ。
彼女の口元が微かにほころんだ、そうか、彼だったのか。
そうだ、稲垣栄作は忙しいのだから、彼がケーキを注文する暇なんてあるわけがない。
でも、彼はどうして自分の誕生日を覚えていたのだろう?
その時、彼女の携帯電話が鳴り、昼間に彼が教えてくれた番号だった。
電話を取ると、磁気のある男性の声が電話越しに聞こえた。
「高橋遥、誕生日おめでとう」
「ありがとう」高橋遥は笑いながら言ったが、その声には微かに嗚咽が混じっていた。
「君…」電話の向こう側は彼女の微かな嗚咽に気づいたようだった。
高橋遥は鼻をすすり、目を細めて笑った。「裕樹さん、ケーキありがとう。今日はとても嬉しいです」
少し話した後、彼女は電話を切り、ケーキを見つめながら、しばらくの間、呆然としていた。
彼女は不思議と笑いが込み上げてきた。彼女の誕生日、結婚記念日、父親の命を救った日、彼女を助け、ケーキを買ってくれたのは、彼女の夫ではなく、幼少期に浅い交友関係のあった友人だった。
翌日、高橋遥はスープを煮て病院に向かった。
部屋に入る前に、中村清子にドアの外で止められた。
中村清子は彼女をじっと見つめていた。「本当に稲垣栄作と離婚するつもりなの?」
高橋遥は無表情で頷いた。
中村清子は慌てた様子で、口調も厳しくなった。「高橋遥、全体を考えなさい。今後、あなたの父親に必要な費用は多いのよ。あなたがそれを負担できると思うの?」
彼女はため息をついた。「彼が昨日、あなたの誕生日を一緒に過ごさなかったことは知っているわ。でも、彼は高い地位にいるのだから、浮気は普通のことよ。それに、あの白井侑里はただの足の不自由な女で、見た目もみすぼらしい。彼女は離婚歴があり、その足も前夫に殴られて怪我をしたのよ。そんな汚れた人間が、あなたの稲垣夫人の地位を脅かすことはないわ」
「稲垣栄作のところに、私にどんな地位があるのか…」高橋遥は自嘲気味に笑った。
「それでも離婚はできないわ。今後の費用は莫大なのよ。あなたは幼い頃から大事に育てられてきたのだから、この家を養う能力なんてないでしょう?それに、あなたの父親が離婚のことを知ったら、きっと怒りのあまり、私たちを見捨てるわ」
彼女は口調を和らげた。「高橋遥、あなたの気持ちは分かるわ。でも、あなたの兄は今、刑務所に入れられそうで、あなたの父親も危篤状態なのよ。どれも稲垣家の支えなしには成り立たないわ」
高橋遥は突然冷笑した。「中村おばさん、稲垣家の支えが必要?父が手術を受けるためのお金が必要な時、稲垣栄作は現れたことがある?」
「兄が捕まった時、彼は現れたことがある?」
彼女はため息をつき、争う気持ちを抑えた。「中村おばさん、あなたの気持ちは分かるわ。昔、家族を裏切ってまで父と結婚したのだから」
「今、結婚指輪を売って借金を返した後、少し残ったお金でしばらくは持ちこたえられるわ。兄の弁護士費用は、家を売るつもりよ。それに、私はバイオリンが弾けるから、仕事をしてこの家を養うわ」
家は母が唯一残してくれたもので、それが彼女の最後の砦だった。
しかし、今はそれを売らざるを得ない、彼女にはもう道が残されていなかった。
中村清子は強がる高橋遥を見つめ、最終的には何も言わなかった。
高橋遥は病室に入り、やつれた父親の高橋大輔を見て、何も言わなかった。
おそらく彼の心の中でも、この家をどう維持するか、兄の高橋時也の将来をどうするかを考えているのだろう。







































































































































































































